ミまとめ3
- 1 :名無しさん@また挑戦:2011/01/28(金) 09:39:24 ID:???
- ☆
- 413 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 12:10:04.10 ID:???
- このアンバランスのはうが重大かと思はれるのは、ジイドもいふやうに「官能性こそは芸術家の最上の美徳」
だからである(因みにいふと、ジイドその人にも官能性が欠けてゐる)。これらの作家たちは、たとへ細緻な
性的感覚をゑがいても、肉の力と形態を欠いてゐるのである。
近代芸術の短所は、まさにその点にある。知性だけが異常発達を遂げて、肉がそれに伴はないのだ。
肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、
肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的なものである。精神の羞恥心が肉を身に
まとはせる、それこそ完全な美しい芸術の定義である。羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。
だまされたと思つてボディ・ビルをやつてごらんなさい。
三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より
- 414 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 18:03:39.24 ID:???
- 人生では、一番誠実ぶつてゐる人が一番ずるいといふ状況によくぶつかります。一番ずるさうにしてゐる人が、
実は仕事の上で一番誠実である場合もたくさんあります。
私は、人間といふものは子どものときから老人に至るまで、その年齢々々のずるさを頑固に持つてゐるものだと
考へてゐます。子どもには恐るべき子どものずるさがあります。気ちがひにすら気ちがひのずるさがあります。
ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。自分がはたして誠実であるかどうかについても
たえず疑つてをります。
人間の肉体はそれが酷使されるときに実にさはやかな喜びをもたらすといふフシギな感じを持つてゐます。
それと同時に精神が生き生きしてまゐります。深刻にものを考へがちな人はとにかく戸外に出て駈けずり
まはらなければいけません。しかし、駈けずりまはつて、スポーツばかりやつて、まつたく精神を使はなくなつて
しまふのもまた奇形であります。
三島由紀夫「青春の倦怠」より
- 415 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 19:52:55.75 ID:???
- 感覚に訴へないものは古びることがない。
三島由紀夫「鴎外の短編小説」より
私は次のやうに考へてゐる。肉体的健康の透明な意識こそ、制作に必要なものであつて、それがなければ、
小説家は人間性の暗い深淵に下りてゆく勇気を持てないだらうと。
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、日光を浴びなければならぬ。
体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。
三島由紀夫「文学とスポーツ」より
われわれはいかに精神世界に生きても、肉体は一種の物質である以上、そのサビをとらなければ、精神活動も
サビつきがちになることを忘れてゐる。
三島由紀夫「体操と文明――浜田靖一著『図説徒手体操』」より
知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し肉化する力を失ふのである。
私がスポーツに求めてゐるのは、さまざまな精神の鮮明な形象であるらしい。
三島由紀夫「ボクシングと小説」より
- 416 :名無しさん@また挑戦:2011/05/01(日) 20:53:10.35 ID:???
- 神島は忘れがたい島である。のちに映画のロケーションに行つた人も、この島を大そう懐しんでゐる。人情は素朴で
強情で、なかなかプライドが強くて、都会を軽蔑してゐるところが気に入つた。地方へ行つて、地方的劣等感に
会ふほどイヤなものはない。
三島由紀夫「『潮騒』のこと」より
オペラといふものには懐しい故郷のやうな感じがするのである。さうして、大体、オペラの筋の荒唐無稽さとか
不自然さとかといふものは、我々は歌舞伎に慣れてゐるからさほど驚きもしない。
この間のわけのわからない京劇などよりも、私はよほど感動した。さうして隣国でありながら京劇がわからないで
オペラはわかるといふことは、不幸なことのやうでもあるが、京劇のやうなわからないものをわかる振りを
するインテリの一部の傾向は、私には無邪気さを欠いてゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「盛りあがりのすばらしさ」より
- 417 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 12:36:50.61 ID:???
- 詩人の魂だけが歴史を創造するのである。
三島由紀夫「日本的湿潤性へのアンチ・テーゼ――山本健吉氏『古典と現代文学』」より
オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに詩と死は同じ仮名である。
オルフェは詩に恋し、死神は神の詩であり、オルフェの女房は詩に嫉妬する。それでいいのだ。
三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より
われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。温和な、やさしい、典雅な美しさに満足して
ゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足してゐるやうな人は、どこか落伍者的素質をもつて
ゐるといつていい。
三島由紀夫「美しきもの」より
地震なるものに厳密な周期律も発展性もないやうに、文壇崩壊論にも、さういふものはない。
近代小説なるものは、日本的私小説であつてはならない。
近代小説には思想が、少なくとも主体的なライトモティーフがなければならぬ。
小説は面白くなくてはならないのである。
三島由紀夫「文壇崩壊論の是非」より
- 418 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 12:43:22.71 ID:???
- 美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。まことに人生はままならないもので、
生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。
三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より
小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、練習は必ず毎日
やらなければならぬといふことである。
三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より
画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら外国の一流の作家の
模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作がズラリと並んでゐてほしい。
運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、少なくとも初歩的な
段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものにならないのである。
三島由紀夫「学習院大学の文学」より
- 419 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 12:50:03.45 ID:???
- 歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。そこにもろもろの小説家、
劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。
三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より
恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも恋は青春の感情と
考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。
三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より
かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀(辰雄)氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の心理作家よりも、
北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら似せようと思ふものには、なかなか似ない
ものである。
三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より
あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。
三島由紀夫「班女について」より
- 420 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 12:56:14.33 ID:???
- はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。
三島由紀夫「文字通り“欣快”」より
花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の着物がはやりだすと
戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。(中略)
かうした慣習や迷信は、女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に
時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、洋服の形の変遷も馬鹿には
できない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いてゐるかもしれないのである。
三島由紀夫「私の見た日本の小社会 小社会の根底にひそむもの」より
男性の突出物は、実に滑稽な存在であるが、それをかうまで滑稽にしたのはあまりに隠蔽する習慣がつきすぎた
ためであらう。
三島由紀夫「私の見た日本の小社会 全裸の世界」より
- 421 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 13:03:40.94 ID:???
- 大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、喜劇の部類に
入らぬことを銘記すべきである。
三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より
怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、早く印象が
薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。
三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より
詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。詩人的な生き方とは、
短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。
小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。ゲーテがウェルテルを
書いて、自殺を免かれたところからはじまる。
三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より
- 422 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 13:06:18.04 ID:???
- 「いづれ春永に」といふ中世以来のあいさつには、あの春日のさし入つた空白のなかでまた顔を合はせませう、
といふ気分があるのだらう。愛情も、好悪も、あらゆる人間的感情が一応ご破算になる。さういふ空間を、
早春の一日に設定した人間のたくらみは、私にも少しはわかる。
三島由紀夫「いづれ春永に」より
ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、これを逆に申しますと
「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。
他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に若々しくさせるものはありません。
三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係――ミシガン大学における講演」より
芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、その生活までも芸術に
引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。
三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より
- 423 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 19:31:10.08 ID:???
- 少年の最初の時期は、異性愛的なものと同性愛的なものが、非常に混在してをります。
私にもごたぶんに漏れず赤紙が来ましたが、即日帰郷になつて帰つて以来、ぱつたり忘れたやうに、もう二度と
来ませんでした。(中略)それはいつまで待つても来ない恋文のやうなもので、しかしいつ訪れるかわからないの
でした。来るのをおそれながら、みな何となくその赤紙を待つような気持ちにもなつてゐました。
窓外の雨にぬれた田園の景色をながめながら、何もかも見をさめだといふ気がしてゐました。あんな不思議な感情は、
今の若い人は知るまいと思ひます。もう負けるにきまつてゐるこの戦争は、おそらく日本国民の全滅をもつて
終るだらうし、目の前にあるものは惨たんたる破局だけ、要するに死だけでありました。ですから何を見るにも
見をさめといふ気がしたし、ある楽しみを味はつても、それは最後の味だと思ふのでした。ですから感覚は
生き生きとし、つまらない事物にも、それを見ることに喜びを感じ、ちやうど雨季に入りかけた木々の緑の
したたりも、実に新鮮に目に映るのでした。
三島由紀夫「わが思春期」より
- 424 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 19:35:55.80 ID:???
- 童心を失つた人とは、自分の思春期までの人生を、ただ子供のばかばかしい無経験なことと考へて、それを
すつかり捨て去り、おとなの散文的な、世俗的な、実は一段とつまらない人生の方にばかり目を向けてゐる人の
ことを言ふのです。
ある年齢の表現は、一見どんな自堕落な行動と見えるものの中でも、その年齢の特有の羞恥心、純情、かはいらしい
無垢な態度、さういふものをひそめてゐるものです。十八歳で六十歳の老人になることはどんなことをしても
できないのです。
その年齢の真実といふものが、人生の最も美しいみのりなのです。みのりは七十歳、八十歳になつてだけできて
くるものではありません。十七歳には十七歳のみのりがあり、十八歳にも十八歳のみのりがあります。
性や愛に関する事柄は、結局百万巻の書物によるよりも、一人の人間から学ぶことが多いのです。われわれの
異性に関する知識は異性のことを書いたたくさんの書物や映画よりも、たつた一人の異性から学ぶことが多いのです。
三島由紀夫32歳「わが思春期」より
- 425 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 21:14:25.74 ID:???
- この地上で自分の意欲を実現する方式に二つはないのではないか? 芸術も政治も、その方式に於ては一つなのでは
ないか? だからこそ、芸術と政治はあんなにも仲が悪いのではないか? ただ、いつも必ず失敗し、いつも
必ず怒つてゐるのは、理想主義者だけなのである。
ワグナーは、加藤道夫氏とちがつて、どうやら、理想の劇場は死んだといふことを、誰よりも鮮明に、腹の中で
知つてゐた男のやうに思はれる。だから彼の「理想の劇場」が建つてしまつたのである。しかしこの壮大な規模の
古代祭典劇の再現を自分で見ながら、やはりワグナーは、その友にして仇敵ニイチェが荘厳な面持で、
「神は死んだ」と言つたやうに、ニヤリと笑ひながら、「理想の劇場は死んだ」と呟いてゐたかもしれない。
私はワグナーといふ男のことを考へると、彼の作品のあのやうな悲愴さにもかかはらず、ワグナー自身は、毫も
悲愴さを持たぬ人間だつたやうな気がしてならない。それは多分彼が「芸術家だから理想主義者ではない」といふ
風土に、育ち且つ生きたからであらう。
三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論 理想の劇場は死んだ」より
- 426 :名無しさん@また挑戦:2011/05/02(月) 21:21:18.30 ID:???
- ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間でありながら、人生を扱ふ
芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。
ラヂウムは本来、人間には扱ひかねるものである。その扱ひには常に危険が伴ふ。その結果、人間の肉体が犯される。
人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に危険が伴ひ、その結果、
彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、生きながら亡霊になるのである。そして、
医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体美しい人生や
人間の心も、それを扱ふ人間には、いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。多少ともかういふ毒素に犯されて
ゐない人間は、芸術家と呼ぶに値ひしない。
三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論 俳優と生の人生」より
- 427 :名無しさん@また挑戦:2011/05/03(火) 12:13:10.68 ID:???
- 川端康成はごく日本的な作家だと思はれてゐる。しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではない
ことは、本当の意味で西洋的な作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、明治以来の
西欧思潮の大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか見えないか
といふ色合の差にすぎない。
(中略)
作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへあるやうに思ふはれ、
(永井)荷風はもつとも忠実にこれを実行した人である。なぜなら芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に
敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。ところで現実の投影の作品世界を清掃してゆくには、
雑然たる東西混淆の日本の現実、日本の不可思議な雑種文明そのものを批評して行かなければならない。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より
- 428 :名無しさん@また挑戦:2011/05/03(火) 12:16:49.02 ID:???
- (中略)
今の東京は、よかれあしかれ、明治以来の継木文化そのままの都市的表現であつて、東京のグロテスクは、
そのまま、われわれ知識人と称するものの内面のグロテスクの反映である。これに対立するものとして、荷風の
江戸のイメーヂがあり、久保田(万太郎)氏の古い東京のイメーヂがある。共に作家の批評の果てに結実した
イメーヂであつて、現実とは断絶してゐる。たゞ荷風が「冷笑」その他の、あらはなエッセイの形でこの批評を
行つたのに対し、久保田氏は、作品だけで批評を行つたにすぎぬ。だから一見、久保田氏の作品は、批評的に
見えない。しかし舞台の上のわびしい朝顔の花一輪にも、批評が、すなはち西洋が結実してゐるのである。
悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。
西洋イコール批評と云つても差支へない。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より
- 429 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 13:09:46.36 ID:???
- さて、日本の現実の、かかる文化的混乱状態の結果として、日本における芸術家の特異な運命がはじまる。
日本では、芸術家肌の作家ほど、極度に批評的にならねばならないのである。これは本当に困つたことで、
芸術創造の機能と批評の機能とは、本来、相反するものなのである。モオツァルトの音楽がどうして批評であらうか。
日本で何故かくも小説といふジャンルが隆盛を極めてゐるかを考へて、私は、その一つの理由に、小説がもつとも
批評的な芸術であるといふ理由を数へずにはゐられない。(中略)
かくて、日本に生れた芸術家は、不断に日本の文明批評を強ひられ、この東西の混淆のうちから、自分の真の
風土と本能にふさはしいイメーヂをみつけ出し、それを的確に結実させた人のみが成功する。(中略)
さて、私はやうやく、川端康成の問題に戻つて来られたやうである。
川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光(利一)氏よりも、批評家として上であつた。
氏の最も西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが
私の意見である。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より
- 430 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 13:15:46.56 ID:???
- 二十代の新感覚派時代の氏の作品は、当時のモダニズムの社会的風潮のスケッチであり、それを独自な感覚で
裁断したものであつて、最もハイカラな文学だつたと云へよう。ただ氏の場合の特色は、自分の鋭敏な感覚を発見し、
それに依拠して、それ以外のものにたよらぬ潔癖のおかげで、作品世界の調和を成就したことである。(中略)
私がことさら、昭和八年、氏が三十五歳の年の「禽獣」を重要視するのは、それまで感覚だけにたよつて縦横に
裁断して来た日本的現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形を、この作品で、はじめて氏が
直視してゐる、と感じるからである。氏は自分の作品世界を整理し、崩壊から救ふべく準備しはじめるが、
いふまでもなくこれは氏の批評的衝動である。
そのとき氏は、はじめて日本の風土の奥深くのがれて、そこで作品世界の調和を成就しよう、西欧的なものは
作品形成の技術乃至方法だけにとどめよう、と決意したらしく思はれる。そして昭和十年に、あの「雪国」が
書きはじめられる。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より
- 431 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 13:20:11.53 ID:???
- 昭和二十五年満二十五歳の写真と、昭和三十一年満三十一歳の写真を比べてみると、この七年の経過は、私を
ずいぶん変へたと思ふ。二十五歳の私は一種の観念的な病気にかかつてゐる。その症状は写真からもありありと
うかがはれる。世間一般の通念でいふと、当時の私は今よりもずつと「純粋」だつたのである。
しかし私は或る種の天才的な詩人のやうに、純粋性そのものの、世界に身の置き処のない孤独をかこつて
ゐたわけではない。純粋な火の玉になつて、人々のあひだをころがりまはつて、火傷を負はせたりして、人に
迷惑をかけてゐたわけではない。(中略)
私は文学だけに生きるのだと思ひ込み、人生における自分の不器用を誇張して考へた。大そう蒼ざめて痩せて
ゐたから、肉体が私の固定観念になつた。私自身における肉体は、いやな、唾棄すべき、目をそむけずには
ゐられぬものであつた。それでゐて、芸術は肉体的劣等感と離れがたいものだと思つてゐた。その結果、人から
耽美主義者と云はれながら、芸術そのものをも私は憎んでゐた。
三島由紀夫「或る寓話」より
- 432 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 13:23:49.05 ID:???
- 私はどうにかして自分の一生の仕事である芸術を憎みたくないと思つて、私の範疇とちがつた文学を求めて、
ギリシアの健康な天才をあがめるにいたつた。
ソポクレースが、前四四〇年、「アンティゴネー」を以て大勝利を収めたあとで、ペリクレースと共にサモスの
叛乱を鎮定すべき十人の将軍の一人に任ぜられたことを知ると、それだけでソポクレースを尊敬した。また
ワイマールの宰相ゲエテを尊敬した。
そのうちに生来の夢想癖から、自分もそんなことができないでもないやうな気がしてきた。自分は思つたほど、
人から思ひ込まされてゐたほど弱くない。もしかしたら私は強者かもしれないのに、それを知らずにゐたら
一生の損ではないか。だんだんに私は自分のことを、しやにむに強者だと思ひ込むやうにした。進んでイヤな
ことをやり、気の進まぬことをもやつた。
牛のまねをして、蛙がお腹をふくらまして、たうとう破裂してしまふ話があるが、私はもしかしたらその破裂の
途上にあるのかもしれない。
三島由紀夫31歳「或る寓話」より
- 433 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 15:35:31.61 ID:???
- マヤの死の神はたえず飢ゑてゐて、がつがつと餌を求めてゐる。ここでは人が死ぬといふことは、自然が自然に
喰はれ、生命が生命に喰はれることであり、たとへ自然死であつても、それは何か蝶が蜘蛛に喰はれるのと似てゐる。
かうして半ば文明生活に護られてゐながら、どこかに自分を打ち倒すいやらしい生々しい生命の存在を予感して
ゐるのは、私だけだらうか。
いや、私だけではない。コミュニストたちは革命の名の下に、砂塵をあげて攻め寄せてくるより強大な生命を
描いてみせながら、思ふ存分、今なほ衰へぬかうした伝来的恐怖を利用する。メキシコの左翼画家リヴェラが
描く威嚇するやうな労働者群は、人間的規模を越えて、熱帯のあくどい圧倒的自然に近づいてゐる。
(中略)
熱帯の人々の生き方には、その外圧的なより強力な生の模倣がひそんでゐる。われわれは巨大なてらてらと
光つた植物や、鸚鵡や豹の生命を模倣しようとする。それに参画しようとする。……これが生きるといふことであり、
これが不可能になつたときそれは死であり、模倣の代りに喰べられ同化されてしまふことなのである。
三島由紀夫「旅の絵本 1 禿鷹の影」より
- 434 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 15:38:35.59 ID:???
- チチェン・イッツァのマヤランド・ロッヂ・ホテルの二階の柱廊から、私は鬱蒼と茂つた熱帯樹の葉むらのかげに、
うす紫の寄生蘭が花咲いてゐるのを見た。と、突然、その蘭の花弁をかすめて、数羽のたけだけしい羽音が起り、
黒い影が目の前をかきみだして翔つた。それは禿鷹だつた。
死はこんな白昼に、こんなにも人々の食卓や寝椅子に近く、力強く羽撃いてゐた。その影は午後の酒を置いた
テーブル・クロースの上をも翳らした。それは不吉な黒い姿をしてはゐるが、やはり強大な生命の一種に
他ならないのだ。
他者としての生命、自我にかかはらない生命……、かういふものの考へ方は西欧人をぞつとさせる。それは容易に
生命と死の同一視にみちびくからである。そしてかういふ考へ方は、必ずどこかで太陽崇拝に結びついてゐる。
身を突き刺す嚠喨たる喇叭の音のやうに、たえず鳴りひびいてゐる熱帯の日光。空気は幾条もの亀裂を生じて澱み、
椰子や火焔樹は目くるめく海の背景に象嵌されて身じろぎもしない。
三島由紀夫「旅の絵本 1 禿鷹の影」より
- 435 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 15:45:31.72 ID:???
- 廃墟といふものは、ふしぎにそこに住んでゐた人々の肌色に似てゐる。ギリシアの廃墟はあれほど蒼白であつたが、
ここウシュマルでは、湧き立つてゐる密林の緑の只中から、赤銅色の肌をした El Adivino のピラミッドが
そそり立つのだ。その百十八の石階には古い鉄鎖がつたはつてをり、むかしマキシミリアン皇妃がろくろ仕掛の
この鎖のおかげで、大袈裟にひろがつたスカートのまま、ピラミッドの頂きまで登つたのであつた。
そこらの草むらには、はうばうに石に刻んだ雨神の顔が落ちてゐた。この豊饒の神の顔は怒れる眉と爛々たる目と
牙の生えた口とをもち、鼻は長く伸びてその先が巻いて象の鼻に似、しばしば双の耳の傍から男根を突き出してゐる。
(中略)
巨大な中庭をかこむ四つの尼僧院の壮麗さは私をおどろかせたが、そこを出て、(中略)ウシュマルのアポロ神殿
ともいふべき「支配者の宮殿」の前に立つたとき、いくつかのゴシック風のアーチの余白をのぞいて、残る隈なく
神秘的な浮彫に飾られた横長の壮大な建築は、私の心をいきいきとさせ、ついで感動で充たした。
三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より
- 436 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 15:51:20.56 ID:???
- 大宮殿はおそらくその下に石階を隠してゐる平たい広大な台地の上にあつた。この正面に相対して、二頭の
ジャグワの像を据ゑた小さい台地があり、さらに宮殿の入口の前には、巨大な男根が斜めにそびえてゐた。
壮麗な建築がわれわれに与へる感動が、廃墟を見る場合に殊に純粋なのは、一つにはそれがすでに実用の目的を離れ、
われわれの美学的鑑賞に素直に委ねられてゐるためでもあるが、一つには廃墟だけが建築の真の目的、そのために
それが建てられた真の熱烈な野心と意図を、純粋に呈示するからでもある。この一見相反する二つの理由の、
どちらが感動を決定するかは一口に云へない。しかし廃墟は、建築と自然とのあひだの人間の介在をすでに
喪つてゐるだけに、それだけに純粋に、人間意志と自然との鮮明な相剋をゑがいてみせるのである。廃墟は現実の
人間の住家や巨大な商業用ビルディングよりもはるかに反自然的であり、先鋭な刃のやうに、自然に対立して
自然に接してゐる。それはつひに自然に帰属することから免れた。それは古代マヤの兵士や神官や女たちの
やうには、灰に帰することから免れた。
三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より
- 437 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 15:54:58.54 ID:???
- と同時に、当時の住民たちが果してゐた自然との媒介の役割も喪はれて、廃墟は素肌で自然に接してゐるのである。
殊に神殿が廃墟のなかで最も美しいのは、通例それが壮麗であるからばかりではなく、祈りや犠牲を通して神に
近づかうとしてゐた人間意志が、結局無効にをはつて挫折して、のび上つた人間意志の形態だけが、そこに
残されてゐるからであらう。かつては祈りや犠牲によつて神に近づき、天に近づいたやうに見えた大神殿は、
廃墟となつた今では、天から拒まれて、自然――ここではすさまじいジャングルの無限の緑――との間に、対等の
緊張をかもし出してゐる。神殿の廃墟にこもる「不在」の感じは、裸の建築そのものの重い石の存在感と対比されて
深まり、存在の証しである筈の大建築は、それだけますます「不在」の記念碑になつたのである。われわれが
神殿の廃墟からうける感動は、おそらくこの厖大か石に呈示された人間意志のあざやかさと、そこに漂ふ厖大な
「不在」の感じとの、云ふに云はれぬ不気味な混淆から来るらしい。
三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より
- 438 :名無しさん@また挑戦:2011/05/04(水) 16:45:52.50 ID:???
- 大体アメリカの貧乏は日本の貧乏よりすご味があります。たとへば年金制度が発達して、隠退後の老人は
働かないでいい、といへば結構なやうだが、さういふ老人はどうやつて余生を送るだらう。ある寒い午後、
友人とセントラル・パークへ散歩に行き、小高い丘の上にある六角堂みたいな建物に入つてみると、その中は
暖房がしてあつて、たゞで西洋将棋ができるやうになつてゐる。むうつとするたばこの煙のなかで、行き場のない
老人ばかりが、じつとチェスの卓を囲んでゐる。長考の顔の深い皺。……スチームのそばのベンチは、ただ
放心したやうに腰かけてゐる老人で一ぱいだ。日本の縁台将棋のやうなにぎやかさはなくて、私は一種凄愴の
気を感じて、いそいで立去りました。
三島由紀夫「旅の絵本 ニューヨークの炎」より
- 439 :名無しさん@また挑戦:2011/05/05(木) 11:09:07.82 ID:???
- アメリカ人がハイチをよろこぶのは、ニューヨークから数時間の飛行でアフリカのにほひをかげるためだといふ。
事実ここにはアフリカ的なものが根強く残つてをり、ほんの少数の富裕なインテリの黒人は、さういふ民衆から
隔絶して、ラシイヌやモリエールを論じてゐる。
山の中腹に市がたつてゐて、そこで売つてゐるもののきたならしさにはびつくりした。牛だか、羊だかの腸を
乾燥させたものや、干魚など、それにぎつしりハヘがたかつてゐる。ハヘはまるでなくてはならない薬味のやうに、
金カンに似たカシュウ・ナットにも、小さい青いレモンにも、パンにも、砂糖菓子にもたかつてゐる。黒い豚や
山羊がつながれ、ロバに乗つてくる女もある。
市中でタクシーに乗つてゐたとき、道の途中で手をあげた男が車を止めて勝手に私のとなりへすはり込み、勝手に
行先を命じて、金も払はずに下りてゆくのに私はあきれて、おこる気もしなかつたが、運転手にいはすと、
あれは移民官だから仕方がないといふのであつた。
三島由紀夫「旅の絵本 ポートオ・プランス(ハイチの首都)」より
- 440 :名無しさん@また挑戦:2011/05/08(日) 15:38:15.78 ID:???
- Q――ちやうど三島さんが行つてゐる間、アメリカの人工衛星の失敗とか、それから例のリトルロックの
黒人学生の排斥問題があるんですが……
三島:あの問題は全然国内問題でね、僕は人種的偏見といふ問題については、外から言ふべきぢやないと思ふんだね。
そりやアメリカ人のみんなに会つてみなければわかりませんよ。そして自分の心の中から完全に人種的偏見が
とり去られなければ、どんな政治的な手や法律的な手を打つたつてだめなんで、時間の問題ですね。
日本人の中には黒人がゐないんだから、この問題を感覚的に理解することができない。人種的偏見つていふのは
心理的な問題であつて、外から、民主主義国にそぐはなくてけしからんといふべき問題ぢやない。つまり歴史と
伝統の問題だからね。
三島由紀夫「三島由紀夫渡米みやげ話――『朝の訪問』から」より
- 441 :名無しさん@また挑戦:2011/05/08(日) 17:20:41.83 ID:???
- 歌右衛門丈については、すでにたびたび書いた。そのたびに同じやうなことを書くことになるのは、丈に
進歩発展がないといふことを意味しない。たとへば一輪のみごとな大輪の菊や、夕闇にうかぶ夕顔の花や、
さういふものについて何度も書いて、そのたびにちがつたことが書けるわけはない。昼夜二部制興行で一日五役や
六役に変貌しても、俳優といふものは役の背後に全く隠れ切つてしまへるわけではない。あらゆる芸術家の中で、
舞台芸術家は、おのれの肉体的条件、おのれの肉体の檻の中にもつとも決定的にとぢこめられてゐる。顔や声や
体つきが個性を暗示するのにもつとも力があるとすれば、顔や声や体つきにもつとも縛られてゐる俳優なるものは、
いちばん個性的芸術家なのである。たとへば個性といふ見地からは、団十郎や菊五郎のはうが、森鴎外や夏目漱石より
個性的なのである。この私の意見はもつと詳述を要するけれど、今はこのくらゐに止めておかう。
三島由紀夫「豪奢な哀愁」より
- 442 :名無しさん@また挑戦:2011/05/08(日) 17:25:53.59 ID:???
- 舞台の芸が時間の経過と共に一瞬一瞬に観客の記憶の中へ組み入れられつつ消え失せてゆくことを思ふと、
われわれは俳優といふ存在に一そう熱狂し、それを失ひたくない思ひにかられる。舞台の上に今歌右衛門丈が
踊つてをり、袖がひらめき、美しい流し目が見え裾の金糸がかがよひ、黒い髪が乱れ……さういふとき、われわれ
観客は自分の全存在を歌右衛門に賭けてしまつてゐるのだが、それといふのも丈が世界中にかけがへのない花だと
いふ意識がわれわれにあるからである。
それは一種の幻覚にすぎないかもしれない。丈がかけがへのない存在なら、お客の一人一人だつてかけがへの
ない存在なのであり、地位やお金や才能の高下があつたところで、だれだつて人間は一人一人かけがへのない存在で、
誰しもそれを知つてゐるから、自分の命が何よりも惜しい。それにもかかはらず、舞台の上の俳優の芸の美しい
一瞬一瞬のためにこちらの存在が空つぽになつてしまつたやうに思へること、これはいかなる魔術であらうか。
三島由紀夫「豪奢な哀愁」より
- 443 :名無しさん@また挑戦:2011/05/08(日) 17:30:52.72 ID:???
- 丈の舞台はとにかくそれだけのものをもつて来たのである。芸の些末なふしぶしがどうあらうと、とにかく見て
ゐるわれわれには、今舞台の上に、途方もない贅沢千万な生命の浪費が行はれてゐるといふ感じが来る。生命の
大盤振舞、金に糸目をつけぬ豪奢な饗宴がくりひろげられてゐるといふ感じがまづ先に来る。そしてこの途方も
ない浪費は、まさにわれわれのために行はれてゐることに気づくと、たぐひない満足と喜びが感じられるのである。
咲き誇つた花や、庭に突然舞ひ込んでくる大きなきらびやかな蝶を見るとき「今見ておかねばならぬ。そして今
見てゐるものこそ、幻ではなくて、本当の美の瞬間の姿だ」と思ふやうに、丈の舞台を見てゐるとき、私は
ときどき、自分が一生に何度とない善尽し美尽しの饗宴の只中にあるやうな気がし、又、あの歓楽尽きて哀傷生ずと
歌つた詩そのままの、いふにいはれない哀愁を感じることがある。宴のさかりにほのかに吹いてくる冷たい
夕風のやうなものを感じることがある。さういふ感じを与へるところが、丈の身上なのかもしれない。
三島由紀夫「豪奢な哀愁」より
- 444 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 15:11:57.09 ID:???
- 世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に思はれてゐる人もたくさんゐる。
社会の大半の人はさうだといふこともできるだらう。あの人は磊落で面白い人だ、気分のいい人だ、と言はれて
一生を過した人が、実はとんでもない反対の性格の持主であつたといふこともありうる。僕といふ人間は磊落かと
思ふと神経質、神経質なのかと思ふと磊落に思はれたりする。正反対の両方が世間にまるだしになつてゐる点で、
一番あけつぴろげなのだといへるかも知れない。
普通の社会だつたら人間だけがあつて、それによつて、太つた人は楽天的、痩せた人は神経質といふふうに
思はれたりするが、小説家といふものは、人間があつてその上作品があるのだから二重の誤解の上に立ち、読者は
いろいろな像を描く。その像にすつぽりはまる作家もゐるだらう。(中略)
僕は自分が不機嫌な時、僕の肖像が、僕をきらひな人の描いた肖像にまるで生き写しだと思つて感心することがある。
三島由紀夫「作家と結婚」より
- 445 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 15:14:44.67 ID:???
- (中略)
僕は結婚したら、大変いい御亭主に見えるだらうとすでに云はれてゐる。しかしシャイネンする(ふりをする)
だけでいいのではないか。人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間は
なかばシャイネンの存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。ザイン(存在)だけのものになつたら、
シャイネンがほんたうに要らない人間になる。それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。
どんなに誠実さうな人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。芸術家らしい
シャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。芸術家らしいシャイネンといへば、
頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て歩いてゐるといふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より
- 446 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 15:36:07.99 ID:???
- よく見てごらんなさい。「薔」といふ字は薔薇の複雑な花びらの形そのままだし、「薇」といふ字はその葉つぱ
みたいに見えるではないか。
三島由紀夫「薔薇と海賊について」より
表題の「薔薇」はどうしても「バラ」ではいけない。薔薇といふ字をじつと見つめてゐてごらん。薔の字は、
幾重にも内側へ包み畳んだ複雑なその花びらを、薇の字はその幹と葉を、ありありと想起させるやうに出来てゐる。
この字を見てゐるうちに、その馥郁たる薫さへ立ち昇つてくる。
三島由紀夫「あとがき(『薔薇と海賊』)」より
世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。しかしこんな
言ひ直しはなかなか通じない。目に見える薔薇といふ花があり、それがどこの庭にも咲き、誰もよく見てゐるのに、
それでも「世界は薔薇だ」といへば、キチガヒだと思はれ、「世界は虚妄だ」といへば、すらすら受け入れられて、
あまつさへ哲学者としての尊敬すら受ける。こいつは全く不合理だ。虚妄なんて花はどこにも咲いてやしない。
三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より
- 447 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 16:09:50.59 ID:???
- このごろは、デモ見物に歩くことが多くなつた。デモの当事者からすれば、弥次馬は唾棄すべき存在だらうが、
かういふときには、一人ぐらゐ「見る人間」も必要である。鴨長明が洛中の屍体の数まで、自分手で数へあげて
ゐる態度は、学ぶべきだと思ふ。新聞を見てもテレビを見ても、どうしても報道そのものに主観的態度が入つて
ゐるやうに思はれる。写真や映画は正に実物そのものの筈だが、必ず主観的なアナウンスが入つてゐて、印象を
混濁させる。かうなつてくると、いはゆるマス・コミは却つて不便で、どうせ主観なら自分の主観、どうせ
目なら自分の目を信ずる他はなくなるのだ。私の目だつて大したことはないが、カメラのレンズよりは少しばかり
精巧であらう。
三島由紀夫「同人雑記(『声』)」より
- 448 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 19:33:51.10 ID:???
- 日本人には、無意識のうちに、俳句的な感情類型といふものは潜んでゐる。五七五でものを考へ、事物を把握し、
ふとした嘱目の風景を、いつのまにか五七五の形に要約して見てゐるといふことはありうる。小さなもの、
たとへば蝶、蚊、こでまりの花、水引草、……そんなものを見た時ほど、さうである。われわれの目には昔ながらに、
美的な、顕微鏡がついてゐる。
(中略)
私はもう俳句を作ることもできず、その才能もないくせに、日本の季節々々が、かういふ小さな美的理論で、
モザイクのやうにぎつしり詰まつてゐることを感じると、いつのまにか、その理論にきつちりとはまつてゐる自分を
痛感することがある。長い冗々しい長編小説なんか書いて、自分が巨人国の仲間入りをしたやうな気になつてゐて、
ふと気がつくと、それは夢で、もともと親指サムぐらゐな背丈しかなかつたことに気のつくやうなものである。
実際北米ニュー・メキシコ州の、西部劇によく出てくる峨々たる岩山ばかりの、乾燥した空々漠々たる風景などに
触れたとき、私は自分の目のレンズがどうしても合はないのを感じた。
三島由紀夫「蝶の理論」より
- 449 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 19:44:10.79 ID:???
- 米国中西部の人は、昔の京都の人のやうに、魚は中毒ると決めてゐて子供のときから食べない習性がついて
ゐるらしく、ニューヨークに住んでも魚(海老さへも)を頑として食はない人がずいぶんゐる。生れてから
肉しか食べたことがないといふのは、人生の半分を知らないやうなものだ。
三島由紀夫「紐育レストラン案内」より
女が自然を敵にまはす瞬間には、どんな流血も許される。彼女の全存在が罪と化したのであるから。
三島由紀夫「『イエルマ』礼讃」より
自信といふものは妙なもので、本当に自信のない人間は、器用なことしかできないのである。
三島由紀夫「武田泰淳氏の『媒酌人は帰らない』について」より
大体、作家的才能は母親固着から生まれるといふのが私の説である。
人生が最悪の事態から最善の事態にひつくり返つたときのおそろしい歓喜といふものは、人の人生観を一変させる
ものを持つてゐる。
三島由紀夫「母を語る――私の最上の読者」より
- 450 :名無しさん@また挑戦:2011/05/09(月) 19:46:41.63 ID:???
- 退屈な人間は狂人に似てゐる。
三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より
もし空想科学映画狂を子供らしい悪趣味と仮定するなら、私は大体において、実生活においても完全に「良い
趣味」を持してゐる芸術家といふやつは、眉唾物だと思つてゐます。
どう考へても、空飛ぶ円盤が存在するといふことは、東山さんの絵や小生の小説が存在するのと同じ程度には、
確実なことではないでせうか。又もし空飛ぶ円盤の存在があやしげだといふのなら、この世における絵や小説の
存在もあやしげになるのではありますまいか。
三島由紀夫「『子供つぽい悪趣味』讃――知友交歓」より
悪の定義は、無限軌道をゆく知性の無道徳性から生れてをり、知性の本来的宿命的特質が、極限の形をとると、
おのづから悪の相貌を帯びるのである。
三島由紀夫「人間理性と悪――マルキ・ド・サド著 澁澤龍彦訳『悲惨物語』」より
人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。
三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より
- 451 :名無しさん@また挑戦:2011/05/10(火) 10:42:47.34 ID:???
- やつぱり僕は日本の女の人、好きだよ。だつて、いざとなりや、親切だもの。ほんと、親切ですよ。ずいぶん
意地悪なこと言つても、結局、親切だもの。
外国の女性はね、友達になつても、日本人みたいに人情が通じないしね、第一、ソバカスが出てて気味が悪いもの。
それにみんな巨きい女つて嫌ひなんだ。(中略)
僕の女の友達、いつぱいゐるけどね、みんな口が達者で、お互に悪口ばつかり言つてて、僕なんかボロクソに
やられてゐる。三文文士扱ひでね、まづ着てるものを全部ケナすんですよ。「趣味の悪いセーターを着てる」とか、
「その頭の格好は何さ」とか「クツシタがなつちやゐない」とかね。さうして「一緒に歩くの恥づかしい」なんて、
サンザン言ふんだ。だけど、その口の悪い友達がね、この間、僕のおふくろが病気で入院したら、三島さんが
さぞ困つてゐるだらう、ショックを受けただらうと思つて泣いたつていふんだな。あとでその話を聞いてね、
僕はちよつとホロリとするんですよ。
僕はヘンな性質があつてね、けんくわ相手みたいなのが好きなんだ。けんくわ相手で時どき親切つていふのが
好きなんです。
三島由紀夫「僕の理想の女性」より
- 452 :名無しさん@また挑戦:2011/05/10(火) 10:46:16.91 ID:???
- (中略)
僕に文学的な興味を持つて僕のお嫁さんになりたいといふ人とは、僕は結婚したくない。さうして非常に
むつかしいことだけど、僕に一人の亭主、一人の夫だけを感じてくれる人と結婚したい。僕は文学的な意見といふ
ものを、身近な人から言はれるのがこはいんです。たとへばヘンな話ですがね、新聞小説を書いてて、家の者に
“つまんない”つて言はれることが、一番いやなんだ。世間の人が“つまんない”つて言ふのはいいけれども、
自分の近所から言はれるの、とつてもいやですね。まして自分の奥さんがさういふことを言ひ出したら、
たまらないだらうと思ふ。
(中略)
それからね、タイプとしては、僕は自分の顔が長いんで、まるいはうがいい。うちの両親みたいに、両方とも
顔が長くつちや、優生学上よくない。僕みたいな子供ができちやふんだ。その僕の所へまた長い顔の奥さんが
来たら、馬がシルクハットかぶつたやうになつちやふ。
僕は可愛いタイプが好きだから、しつかり者で可愛いといふのは、無理なやうだけど、そんな人、ゐないわけぢや
ないと思ひます。
(談)
三島由紀夫「僕の理想の女性」より
- 453 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 15:06:57.52 ID:???
- 人間の肉体の可視的な美は、せいぜい二十代で終つてしまつて、あとは凋落の一途を辿るだけであるから、
それからの人間は仕事や知恵や精神に携はらなければならぬ。精神の営みの未成熟な若い人の上に起る死は、
病死であれ自殺であれ、結局肉体が滅びるだけのことである。精神や知性の声がそこで途絶えるといふのではなく、
若い美しい肉体が急に音を立てなくなつて、動かなくなつて、腐朽するといふだけのことである。青年の死は
かくて、どんなに哲学的な遺書を残さうとも、要するに一箇の肉体的事件なのである。青年が精神的と考へる
あらゆる問題が、より深い意味では、純粋に肉体的な問題にすぎぬといふ考へは、私が自分の青年時代を経て
到達した頑固な確信であつて、昨今の心中事件を見ても、この確信を変へることはできない。
しかし、私は若い人を蔑するのではない。年を重ねるとともに、人は純粋な肉体上の死が不可能になる。
さうなつてからの自殺や心中を醜い、と私は言ふのである。
三島由紀夫「心中論」より
- 454 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 15:10:38.88 ID:???
- 私は若い人の心中を美しいとする日本人特有の偏奇な美意識から出発して、いつのまにか、若い人の心中に一種の
精神の勝利を見ようとする日本人に共通な感覚と背馳してしまつてゐる。事実、私はかれらの心中に、精神の
勝利などといふものをみぢんも感じることができない。精神といふものは頑固に生き永らへ、頑固に老い、頑固に
形成しようと志向するものであつて、それだからこそ精神は、人間の永い歴史に亘つて、頑固に「生命の代理」を
つとめて来たのである。青春時代をすぎて、生命がその真の活力と魅力を失つた時になつて、あたかも別の生命が
動き出したやうに、精神が生命の働きを模倣しつつ働き出し、生命を凌駕するまでに至るのである。これを
知つてゐたギリシャ人は、人間精神のあらゆる形態を、青年の肉体の彫像で象徴し永遠化しうると考へて、
それに成功した。
(中略)
精神といふものは、多分、起源的には男性の専有物であり、男性の武器であつたが、その武器によつてまた自ら
傷つけられて、精神が孤立して、女性の領分である大地から絶縁される憂目にも会つたのであつた。
三島由紀夫「心中論」より
- 455 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 15:14:43.39 ID:???
- ……さて、私が心中を単に肉体的事件だと云つたのは、低い官能的な意味で云つたのではない。私は、それが
精神上の事件ではなく、女性的な情感的な世界の出来事だといふことも、籠めて云つたつもりである。ところで、
日本では男ですら、大部分がかうした女性的情感的な世界に好んで住んでゐるのである。浪花節やヤクザの
勇ましさは、実は極度に女性的情感的なものである。一方、芸術といふものは、半ば男性的半ば女性的なもので
あつて、といふよりは、一般の平均水準から云ふと、百パーセント男性的なものに、百パーセント女性的なものを
混淆して出来上つてゐるので、純粋に精神と知性だけの制作にかかはるものではない。芸術は、日本では、殊に、
女性的、情感的、肉体的、官能的なものへの嗜好を充たすやうに要請されてゐる。それが心中といふやうな
ティピカルなその表現を見のがすわけがない。かくて近松の有名な心中物の傑作が生れ、もてはやされて来たので
あるが、そこでは常に、男性の理念が、女性の情念に屈服し敗北する、同じ主題が語られてゐる。
三島由紀夫「心中論」より
- 456 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 15:17:21.92 ID:???
- (中略)
肉体といふものが本質的に滅亡の論理をもち、精神がその対蹠物として据ゑられて、永遠への志向をもつといふのは、
キリスト教や仏教を問はず、あらゆる宗教の前提であつた。
日本人にはかういふ宗教的情操に加ふるに、一種の美的な思考があつて、肉体の持つてゐる滅亡の論理そのものを
美化して、崇敬の対象にしようとする傾きがある。日本人の自殺讃美には、かくて、人間意志の悲劇といふものが
欠けてゐて、自殺や心中といふ人間意志の行為そのものさへ、実にあいまいな形態を帯びるのである。
たとへ自殺や心中をしなくつても、自己破壊が青春の本質的衝動なのであるが、それは青春なるものが「肉体的
状態」であるといふことをしか意味しない。かうした肉体的状態に突如として「永遠」を継木して、自分たちの
清純な恋愛の永遠性を保証しようといふのは、思へば無謀な論理であるが、こんな無謀な論理からしか、心中の
美しさが生れないことも事実なのである。
三島由紀夫「心中論」より
- 457 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 15:25:12.75 ID:???
- 若い人の清純な心中が、忽ち伝説として流布され、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」の証左にされるのは、
少なくともこのやうな架空の幻影のために彼らが身命を賭したといふ誠実さの証拠にはなる。といふのは、
「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」なるものは、生きてゐようが、自殺してみようが、心中してみようが、
青春といふ肉体的状態にとつては不可能な文字なのであつて、青春のあらゆる特質と矛盾する性質のものであるから、
それゆゑに、さういふものは美しいのである。精神や永遠に身自ら近づきかけてゐる年齢の人たちの心中が醜くて
不潔に思はれるのは、正にかれらの内部にこそ、生きながら、精神や永遠性への志向が、期待されてゐるから
なのである。かういふ点では、私は、世間の成人たちが若い人たちに対して抱いてゐる甘つたるい幻影に全く
与しない。
ところで心中の美しさといふものも、全く幻影的なものである。文楽の人形で見たつて「知死期」の苦悶は
いいかげんグロテスクな見物であるが、人間の死にざまがそんなに美しからうはずがない。
三島由紀夫「心中論」より
- 458 :名無しさん@また挑戦:2011/05/16(月) 16:12:50.78 ID:???
- (中略)
大体心中や自殺が人里離れた場所を選ぶのは、死をできる限り「主観的な」事件にしたいといふ欲望からであらう。
他人の目はその死を客体に化してしまふ。恋人の目だつて、他人の目にはちがひないのであるが、心中が自殺と
ちがふ点は、やはりお互ひがお互ひの死を眺め、主観的な死と客観的な死を同時に味はひ得るといふ点にあらう。
いや、一人きりの自殺ですら、ある人々はビルの屋上から人通りの多い路上に身を投げて、自分にとつては全く
主観的な死を、すぐさま客体化したいといふ熱烈な野望に燃えてゐる。
(中略)死を決行しようとするとき、孤独の本源的な意味に触れて、死のみならず生そのものも完全に孤独で
あるといふ結論に到達するには、ある弱さがその妨げをなし、心中といふ形に落着くこともあらう。(中略)
純粋自殺といふものが机上の空想であるなら、自殺の中でもどうやら一等純粋性のあいまいな心中だつて、
悪いことはあるまい。そこではあくまでも物事が相対的であつて(中略)死の客体化の欲求をも充たし、欲張りで、
贅沢で、消費的で、……要するに人智の編み出した一つの技術である。
三島由紀夫「心中論」より
- 459 :名無しさん@また挑戦:2011/05/23(月) 11:37:09.06 ID:???
- 風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり新鮮な美学の発展期には、
人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、
古くなるにしたがつて古ぼけた滑稽なものと見られて行きます。
形容詞は文章のうちで最も古びやすいものと言はれてゐます。なぜなら、形容詞は作家の感覚や個性と最も
密着してゐるからであります。(中略)しかし形容詞は文学の華でもあり、青春でもありまして、豪華な
はなやかな文体は形容詞を抜きにしては考へられません。
文章の不思議は、大急ぎで書かれた文章がかならずしもスピードを感じさせず、非常にスピーディな文章と
見えるものが、実は苦心惨憺の末に長い時間をかけて作られたものであることであります。
ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは理知のもつとも
なごやかな形式なのであります。
三島由紀夫「文章読本」より
- 460 :名無しさん@また挑戦:2011/07/21(木) 12:10:16.54 ID:???
- >>236の前
(中略)
鬼子母神は、子をとらへて喰ふ罪業を拭はれて、大慈母となるのであるが、氏のエロスの本質を探つてゆくと、
この鬼子母神的なものにめぐり当る。(中略)女性とは、氏にとつて、このやうなダブル・イメーヂを持ち、
慈母としての女性の崇高な一面は、亡き母に投影され、一方、鬼子母的な一面は、ナオミズムの名で有名な
「痴人の愛」の女主人公に代表されるのであるが、後者ですら、その放埒なエゴイズムと肉体美が、何か崇高な
ものとして崇拝の対象になつてゐる。そして、女性のこの二つの像が、最晩年の「瘋癲老人日記」の主人公の
極楽往生の幻想のうちに、見事に統一されてゐると考へられる。
前者の女性像を中心とした「刺青」「春琴抄」「鍵」と、後者、すなはち母のイメーヂを中心とした「母を恋ふる記」
「少将滋幹の母」の、二系列のうち、谷崎文学を語るときに、後者の系列も決して無視することはできない。
三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より
- 461 :名無しさん@また挑戦:2011/07/21(木) 12:15:37.88 ID:???
- なぜならそこでは、女性に対するもつとも浄化された愛が唱ひ上げられ、通例の意味の恋愛小説といふ点では、
却つてこの系列のはうが恋愛小説らしいからである。しかし、それでは慈母の像に全くエロスの影が認められぬかと
いふと、さうとは云へないところが谷崎的である。ただ、母のエロス的顕現は、意識的な欲望の対象としてではなく、
無意識の、未文化の、未知へのあこがれといふ形でとらへられるので、そのとき主体は子供でなくてはならない。
(中略)
かういふ母性への醇化された憧れに、たまたま肉慾がまじつて来ると、忽ち相手の女性は転身して、「刺青」や
「春琴抄」の女主人公のやうな、美しい肉体のうちに一種の暗い意地悪な魔性を宿した、谷崎文学独特の女に
なつて来るところが面白い。しかし、仔細に見ると、これらの女性の悪は、女性が本来持つてゐる悪といふよりは、
男によつて要請され賦与された悪であり、ともすると、その悪とは、「男性の肉慾の投影」にすぎないのでは
ないかと思はれるのである。
三島由紀夫「谷崎潤一郎」より
- 462 :名無しさん@また挑戦:2011/12/10(土) 17:34:04.02 ID:???
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